2012年07月19日
第三十四番 本還寺
足柄33観音めぐりも無事に済ますことができました。元箱根の本還寺は番外34番目となっています。
椿ラインから少し入ったところにあり、公民館の先にあります。
以前は山野草の植物園をお寺の裏に開園されていましたが、今は残念ながら閉園しています。
お墓から除くことができますので少しだけ入らせていただきました。
帰りにワカサギフライの定食がおいしい店として、芦ノ湖湖畔の本陣を紹介してくれました。さっそく行ってワカサギフライとは別に芦ノ湖丼とヒレカツ丼をいただきました。
小田原シルバー大学足柄観音霊場三十四か所めぐりガイドブックより
到国山 本還寺 本尊 阿弥陀
箱根の関所が開設された元和4年(1618)江戸増上寺の末寺として開山された。箱根七福神めぐり(寿老人)のてらでもある。
椿ラインから少し入ったところにあり、公民館の先にあります。
以前は山野草の植物園をお寺の裏に開園されていましたが、今は残念ながら閉園しています。
お墓から除くことができますので少しだけ入らせていただきました。
帰りにワカサギフライの定食がおいしい店として、芦ノ湖湖畔の本陣を紹介してくれました。さっそく行ってワカサギフライとは別に芦ノ湖丼とヒレカツ丼をいただきました。
小田原シルバー大学足柄観音霊場三十四か所めぐりガイドブックより
到国山 本還寺 本尊 阿弥陀
箱根の関所が開設された元和4年(1618)江戸増上寺の末寺として開山された。箱根七福神めぐり(寿老人)のてらでもある。
Posted by 足柄山の金太郎 at
08:55
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2012年07月18日
第三十三番 無量寺
五回に分けてほぼ徒歩で巡った足柄33観音もここ無量寺で満願となります。残すのは箱根の番外三十四番の本還寺のみとなりました。多くのお寺さんでは、快く応対していただき、御本尊の拝観をさせていただきました。お留守などで数ヶ寺で本尊の拝観をすることができませんでしたので、日を改めて巡って見たいとと思います。
「新編相模国風土記稿」には
無量寺 浄土宗 京都知恩院末 不老山壽松院と号す。 天正元年の剏建にて開山壽松。 本尊阿弥陀又東照宮の御木像を安置し奉る。
観音堂 十一面観音を置く。
小田原シルバー大学ガイドブックより
当寺の開山は天正元年(1573)專蓮社成譽壽松上人がこの地に念佛精舎の寺を創建したのが始まりである。「徳川家康公縁由之寺」として知られている。
観音様は厨子に納められていて拝観することができませんでした。毎月17につに御開帳しているとのこと改めてくることにしました。
「新編相模国風土記稿」には
無量寺 浄土宗 京都知恩院末 不老山壽松院と号す。 天正元年の剏建にて開山壽松。 本尊阿弥陀又東照宮の御木像を安置し奉る。
観音堂 十一面観音を置く。
小田原シルバー大学ガイドブックより
当寺の開山は天正元年(1573)專蓮社成譽壽松上人がこの地に念佛精舎の寺を創建したのが始まりである。「徳川家康公縁由之寺」として知られている。
観音様は厨子に納められていて拝観することができませんでした。毎月17につに御開帳しているとのこと改めてくることにしました。
Posted by 足柄山の金太郎 at
20:54
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2012年07月18日
第三十二番 大蓮寺
報身寺からさほど遠くない大蓮寺に向かいました。
「新編相模国風土記稿」によると
大蓮寺 浄土宗 京都知恩院末 稲荷山一花院と号す。 開山純栄。 報蓮社能譽と号す。 大道寺駿河守政繁の母寶地院中興開基す。是の時今の寺号を授く。本尊阿弥陀 観音堂正観音を置く。
小田原シルバー大学ガイドより
当寺は寶正2年(1461)大道寺駿河守政繁の母寶地院が、かって当地に建てられてあった仏堂が朽損し大破に及んでいるのにーを嘆き、報蓮社能譽順栄和尚わ招き再建したといわれている。小田原七福神めぐり(福禄寿)の寺である。
「新編相模国風土記稿」によると
大蓮寺 浄土宗 京都知恩院末 稲荷山一花院と号す。 開山純栄。 報蓮社能譽と号す。 大道寺駿河守政繁の母寶地院中興開基す。是の時今の寺号を授く。本尊阿弥陀 観音堂正観音を置く。
小田原シルバー大学ガイドより
当寺は寶正2年(1461)大道寺駿河守政繁の母寶地院が、かって当地に建てられてあった仏堂が朽損し大破に及んでいるのにーを嘆き、報蓮社能譽順栄和尚わ招き再建したといわれている。小田原七福神めぐり(福禄寿)の寺である。
Posted by 足柄山の金太郎 at
11:49
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2012年07月18日
第三十一番 報身寺
真鶴から再び小田原に戻り早川漁協対岸の報身寺を目指します。
その前にちょっと腹ごしらえに
早川漁港内の市場食堂に立ち寄りました。
市場内の2階にある食堂は、ちょうど昼時で外にまで行列ができていました。
中は広く比較的回転が速く待つことなく自動販売機で食券をゲット。
刺身定食・名物鯵のつみれ汁 1000円プラス180円
煮魚定食金目鯛を 980円を購入
ちょっと時間がかかるの声に待つこと15分。
脂ののった大きめの金目鯛の煮つけを大変おいしくいただきました。
二階の部分に市場食堂はあります。
おなかも満腹になったので橋を渡って報身寺に向かいました。
小田原シルバー大学足柄観音霊場34か所ガイドより
当寺は寶正4年(1463)に然譽残上人により創建された。寺には国の重要文化財阿弥陀如来像一幅(現在上野国立博物館に寄託)もゆうしている。他に建武中興を前に散った平成輔(史史跡)、淡島大明神(女性の守り本尊)もある。
「新編相模国風土記稿」には
身報寺 報身寺の誤りか
浄土宗 芝増上寺末 永刼山最勝院と号す。 開山法残。 寶正4年建。 本尊三尊阿弥陀。 淡島社 神體木像。
その前にちょっと腹ごしらえに
早川漁港内の市場食堂に立ち寄りました。
市場内の2階にある食堂は、ちょうど昼時で外にまで行列ができていました。
中は広く比較的回転が速く待つことなく自動販売機で食券をゲット。
刺身定食・名物鯵のつみれ汁 1000円プラス180円
煮魚定食金目鯛を 980円を購入
ちょっと時間がかかるの声に待つこと15分。
脂ののった大きめの金目鯛の煮つけを大変おいしくいただきました。
二階の部分に市場食堂はあります。
おなかも満腹になったので橋を渡って報身寺に向かいました。
小田原シルバー大学足柄観音霊場34か所ガイドより
当寺は寶正4年(1463)に然譽残上人により創建された。寺には国の重要文化財阿弥陀如来像一幅(現在上野国立博物館に寄託)もゆうしている。他に建武中興を前に散った平成輔(史史跡)、淡島大明神(女性の守り本尊)もある。
「新編相模国風土記稿」には
身報寺 報身寺の誤りか
浄土宗 芝増上寺末 永刼山最勝院と号す。 開山法残。 寶正4年建。 本尊三尊阿弥陀。 淡島社 神體木像。
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10:50
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2012年07月17日
第三十番 発心寺
真鶴の発心寺は駅前を湊のほうに下だったところにあります。
「新編相模国風土記稿」には
発心寺 佛光山亀寶院と号す。 浄土宗 小田原大蓮寺末 弘治元年、僧貞厳建 本尊阿弥陀
真下に立つ度上の鏡に自分の姿が映ります。
「新編相模国風土記稿」には
発心寺 佛光山亀寶院と号す。 浄土宗 小田原大蓮寺末 弘治元年、僧貞厳建 本尊阿弥陀
真下に立つ度上の鏡に自分の姿が映ります。
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10:45
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2012年07月17日
第二十九番 西念寺
真鶴の西念寺は
「新編相模国風土記稿」に
西念寺 湊上山と号す。 浄土宗 三王原村心光寺末 本尊 阿弥陀
「新編相模国風土記稿」に
西念寺 湊上山と号す。 浄土宗 三王原村心光寺末 本尊 阿弥陀
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10:35
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2012年07月17日
第二十八番 阿弥陀寺
小田急線が乗り入れているので、新宿から小田原経由で乗り換えなく箱根登山鉄道湯本駅で下車するか、塔ノ沢まで箱根登山鉄道で行きます。そこから急坂を上がると阿弥陀寺につきます。
徒歩の場合は階段の続く参道が続きますが、車の場合は本堂の近くまで行くことができます。湯本駅からタクシーでは断られるそうですが、自分の車湯本駅を過ぎて間もなく、和菓子店の角を左に曲がり、箱根登山鉄道のガードを越して日帰り温泉ひめしゅらの湯のほうに進みます。間もなく阿弥陀寺への参道に至ります。車一台の細い急坂を進むことになります。
今回、4人でビッツで行きましたが、駐車場の手前の急坂でダウン、運転者のみにして軽くしてから再度挑戦するも全く進みません。必死パーキングブレーキを目いっぱい引いて、恐る恐る車をバックして避難場所に止めることができました。車に慣れない女性などの運転では、どうなったかを想像すると冷や汗が出ました。
軽などではいかないほうが無難です。
駐車場は広く10数台は止められますが、すれ違いができない山道ですのでできるだけ車で行くのはやめたほうがよいと思います。
それでも何とか車で行った私たちを徒歩で登られてきた皆様の視線を感じながら、見頃のアジサイが咲き乱れる本堂まで5分で行くことができました。
「新編相模国風土記稿」には
阿弥陀寺 塔ノ峰にあり。阿育王山放光明律院と号す。浄土宗芝増上寺末。境内方二十四町は慶長九年十月、大久保相模守忠隣の寄付する所なり。本尊三尊阿弥陀。及び西国三十三観音の模造、又地蔵。開山禅誓慶長中剏立せしこと縁起に見えたり。
保善院伝統記に據れば、安叟宗楞の弟子、智海哲当寺を開建して安叟を請う。安叟当寺に隠居して病を養い、文明中最乗寺に住せしこと見ゆ。
また、久野村総世寺傳に據れば、安叟塔ノ峰に草案を営み、後総世寺を開建す。故に舊地の名を移して総世寺も阿育王山と云うと見ゆ。
ご詠歌の刻まれた石碑が本堂近くにあります。
阿弥陀寺を後にして、一夜城ヨロイヅカファームへ寄りました。
店内は満員いつまで待てばよいのかわからないので、外で店内で売っているパンをいただきました。
今では街中でも多くのパンの名店がありますので、それらと比べれば。
それなりにおいしかったですが、何よりのおいしさは、美しい景色を見ながらの解放感が何よりの味でした。
徒歩の場合は階段の続く参道が続きますが、車の場合は本堂の近くまで行くことができます。湯本駅からタクシーでは断られるそうですが、自分の車湯本駅を過ぎて間もなく、和菓子店の角を左に曲がり、箱根登山鉄道のガードを越して日帰り温泉ひめしゅらの湯のほうに進みます。間もなく阿弥陀寺への参道に至ります。車一台の細い急坂を進むことになります。
今回、4人でビッツで行きましたが、駐車場の手前の急坂でダウン、運転者のみにして軽くしてから再度挑戦するも全く進みません。必死パーキングブレーキを目いっぱい引いて、恐る恐る車をバックして避難場所に止めることができました。車に慣れない女性などの運転では、どうなったかを想像すると冷や汗が出ました。
軽などではいかないほうが無難です。
駐車場は広く10数台は止められますが、すれ違いができない山道ですのでできるだけ車で行くのはやめたほうがよいと思います。
それでも何とか車で行った私たちを徒歩で登られてきた皆様の視線を感じながら、見頃のアジサイが咲き乱れる本堂まで5分で行くことができました。
「新編相模国風土記稿」には
阿弥陀寺 塔ノ峰にあり。阿育王山放光明律院と号す。浄土宗芝増上寺末。境内方二十四町は慶長九年十月、大久保相模守忠隣の寄付する所なり。本尊三尊阿弥陀。及び西国三十三観音の模造、又地蔵。開山禅誓慶長中剏立せしこと縁起に見えたり。
保善院伝統記に據れば、安叟宗楞の弟子、智海哲当寺を開建して安叟を請う。安叟当寺に隠居して病を養い、文明中最乗寺に住せしこと見ゆ。
また、久野村総世寺傳に據れば、安叟塔ノ峰に草案を営み、後総世寺を開建す。故に舊地の名を移して総世寺も阿育王山と云うと見ゆ。
ご詠歌の刻まれた石碑が本堂近くにあります。
阿弥陀寺を後にして、一夜城ヨロイヅカファームへ寄りました。
店内は満員いつまで待てばよいのかわからないので、外で店内で売っているパンをいただきました。
今では街中でも多くのパンの名店がありますので、それらと比べれば。
それなりにおいしかったですが、何よりのおいしさは、美しい景色を見ながらの解放感が何よりの味でした。
Posted by 足柄山の金太郎 at
06:53
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2012年07月16日
第二十七番 常光寺
板橋の地蔵尊の隣にあります。
小田原シルバー大学足柄33観音ガイドより
明星山 常光寺 本尊 阿弥陀如来
慶安元年(1648)観蓮社乗譽巌公によって創建され、以降幾多の変遷をたどってきたが、記録がなく寺歴を詳らかにすることはできない。大正に入り一時期梶宝順が止住し、宗門文化に偉大な足跡を残している。
小田原シルバー大学足柄33観音ガイドより
明星山 常光寺 本尊 阿弥陀如来
慶安元年(1648)観蓮社乗譽巌公によって創建され、以降幾多の変遷をたどってきたが、記録がなく寺歴を詳らかにすることはできない。大正に入り一時期梶宝順が止住し、宗門文化に偉大な足跡を残している。
Posted by 足柄山の金太郎 at
21:34
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2012年07月16日
第二十六番 栄善寺
「新編相模国風土記稿」
栄善寺 大窪山阿弥陀院と号す。 浄土宗 小田原大蓮寺末 開山淨慶 文禄四年起つ。 本尊弥陀
小田原シルバー大学ガイドより
当寺は文禄四年4(1595)沢蓮社清譽淨慶によって開創されたと伝えられる。その寺歴については記録を欠き詳らかにすることができず。幾多の道をたどった後昭和二十六年には浄土宗を離脱し、浄土宗本派に帰属した。
観音 馬頭観音
栄善寺 大窪山阿弥陀院と号す。 浄土宗 小田原大蓮寺末 開山淨慶 文禄四年起つ。 本尊弥陀
小田原シルバー大学ガイドより
当寺は文禄四年4(1595)沢蓮社清譽淨慶によって開創されたと伝えられる。その寺歴については記録を欠き詳らかにすることができず。幾多の道をたどった後昭和二十六年には浄土宗を離脱し、浄土宗本派に帰属した。
観音 馬頭観音
Posted by 足柄山の金太郎 at
21:20
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2012年07月15日
第二十五番 傳肇寺
樹高山西照院と号す。 京都知恩院末
本尊阿弥陀如来 千手観音を安ず。
小田原シルバー大学ガイドブックより
当初無極斉という道心者が西安二年(1300)の頃この地に草案を結んでいたが、永徳年中二年(1381~3)聡蓮社嘆譽良肇が堂宇を再建し一寺とした。当時寺地は筋違橋大蓮寺の東対隣に位置しね北隣は北条氏照邸になっていた。天正十五年(1587)この地から現在の地に移建した。
この寺はみみづく寺として有名で、かって北原白秋がここに住まいし多くの歌を作った。
ちょうどご住職はお留守で、ご住職のお母さん・ご住職は娘さんで、先代ご住職の奥さんとのことでした。
敷地地内に幼稚園も経営されています。北原白秋のことについて、手作りのお菓子をいただきながら、白秋の歌も歌っていただきながら説明をしてくださいました。
本尊阿弥陀如来 千手観音を安ず。
小田原シルバー大学ガイドブックより
当初無極斉という道心者が西安二年(1300)の頃この地に草案を結んでいたが、永徳年中二年(1381~3)聡蓮社嘆譽良肇が堂宇を再建し一寺とした。当時寺地は筋違橋大蓮寺の東対隣に位置しね北隣は北条氏照邸になっていた。天正十五年(1587)この地から現在の地に移建した。
この寺はみみづく寺として有名で、かって北原白秋がここに住まいし多くの歌を作った。
ちょうどご住職はお留守で、ご住職のお母さん・ご住職は娘さんで、先代ご住職の奥さんとのことでした。
敷地地内に幼稚園も経営されています。北原白秋のことについて、手作りのお菓子をいただきながら、白秋の歌も歌っていただきながら説明をしてくださいました。
Posted by 足柄山の金太郎 at
22:10
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2012年07月15日
第二十四番 本誓寺
小田原駅を降りて北口より近くに本誓寺はあります。
「新編相模国風土記稿」には
本誓寺 当知山重願院と号す。 京都知恩院末 創建は文亀元年なり。開山傳蓮社曜譽酉冏信公。開基は藤枝某なり。
本尊三尊阿弥陀 江戸深川本誓寺伝に小田原本誓寺六世大譽文賀、文禄四年江府に一寺を建つ。山院寺の号竝に小田原に因みしこと見ゆ。当寺はその伝を失へり。
お訊ねし本尊の拝観をお願いしたが、当寺には観音様はないとのことで断られました。
またの機会にお尋ねしてみようと思います。
「新編相模国風土記稿」には
本誓寺 当知山重願院と号す。 京都知恩院末 創建は文亀元年なり。開山傳蓮社曜譽酉冏信公。開基は藤枝某なり。
本尊三尊阿弥陀 江戸深川本誓寺伝に小田原本誓寺六世大譽文賀、文禄四年江府に一寺を建つ。山院寺の号竝に小田原に因みしこと見ゆ。当寺はその伝を失へり。
お訊ねし本尊の拝観をお願いしたが、当寺には観音様はないとのことで断られました。
またの機会にお尋ねしてみようと思います。
Posted by 足柄山の金太郎 at
21:36
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2012年07月14日
第二十三番 城源寺
城源寺のご住職が、足柄観音めぐりのいきさつについてお知りになっている唯一の方だとあるホームページの記事で知り、お会いすることを楽しみに訪問しました。
小田原駅より市役所方面に坂を上がり頂上付近の電気工事店の角をを左折すると城源寺はあります。坂上の右手には墓地があるのでよくわかります。
寺前は公園となっていて、鉄道事故のモニュメントや、北原白秋の歌碑などがあります。
城源寺のご住職は、依然毎日新聞の記者として活躍されていたとのこと興味あるお話が聞かれました。足柄33観音めぐりは、昭和2年・小田急線が小田原まで開通し、小田急線を利用者を呼び込むために、浄土宗の小田原組という組織があり、その方々が集まって沼田の西念寺さんと無量寺さんを中心に、足柄33観音が創設されたようです。浄土宗では、本尊が阿弥陀如来で、その脇仏として右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩をまつられていますので、すでに観音信仰の対象の寺院をのぞいてをのぞいて特別に観音信仰の霊場でなくとも取り入れられるとのことでした。しかし、多くの辞意委がかんのか札所としての体裁を保った、観音ぞうや観音図などを急いで取り揃えたと聞きました。
足柄33観音ご詠歌は、無量寺のご住職と、奥様で巡礼地を読み込んで作られました。ご詠歌集の小島ヒサさんは、無量寺の奥さんだとのことでした。
城源寺は、ちょうど山に囲まれたすり鉢状のところにあります。古くは北条氏の前にこの地を納めていた大森氏の城がありました。戦前は競馬場としてかいはつされ、城源寺の本堂前は厩舎であったと、本堂内に飾られている競馬場の写真を見せていただきながら説明をしてくれました。
城源寺 花岳山月光院 本尊 阿弥陀 観音 馬頭観音
南北朝期、1340年ごろの創建で、浄土宗としてはかなり古い。
小田原駅より市役所方面に坂を上がり頂上付近の電気工事店の角をを左折すると城源寺はあります。坂上の右手には墓地があるのでよくわかります。
寺前は公園となっていて、鉄道事故のモニュメントや、北原白秋の歌碑などがあります。
城源寺のご住職は、依然毎日新聞の記者として活躍されていたとのこと興味あるお話が聞かれました。足柄33観音めぐりは、昭和2年・小田急線が小田原まで開通し、小田急線を利用者を呼び込むために、浄土宗の小田原組という組織があり、その方々が集まって沼田の西念寺さんと無量寺さんを中心に、足柄33観音が創設されたようです。浄土宗では、本尊が阿弥陀如来で、その脇仏として右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩をまつられていますので、すでに観音信仰の対象の寺院をのぞいてをのぞいて特別に観音信仰の霊場でなくとも取り入れられるとのことでした。しかし、多くの辞意委がかんのか札所としての体裁を保った、観音ぞうや観音図などを急いで取り揃えたと聞きました。
足柄33観音ご詠歌は、無量寺のご住職と、奥様で巡礼地を読み込んで作られました。ご詠歌集の小島ヒサさんは、無量寺の奥さんだとのことでした。
城源寺は、ちょうど山に囲まれたすり鉢状のところにあります。古くは北条氏の前にこの地を納めていた大森氏の城がありました。戦前は競馬場としてかいはつされ、城源寺の本堂前は厩舎であったと、本堂内に飾られている競馬場の写真を見せていただきながら説明をしてくれました。
城源寺 花岳山月光院 本尊 阿弥陀 観音 馬頭観音
南北朝期、1340年ごろの創建で、浄土宗としてはかなり古い。
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16:38
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2012年07月13日
第二十二番 新光明寺
小田原より大雄山線に乗って一つ目緑町の駅は、始発駅の小田原駅からそう遠くない前方に、駅のホームが見えているという大変面白い駅です。電車の車窓からも見ることができます。
「新編相模国風土記稿」には
新光明寺 浄土宗 鎌倉光明寺末 天照山蓮華院と号す。 開山良記貞譽と号す。俗姓は北条氏、本山22世の僧。本山住職の頃、この地東海和尚。開基の舊跡に就き、永禄二年、起立して陰棲のところとなす。山院寺の号も鎌倉を襲ひ、ただ新の一字を加ふるのみ。本尊阿弥陀 二菩薩
「新編相模国風土記稿」には
新光明寺 浄土宗 鎌倉光明寺末 天照山蓮華院と号す。 開山良記貞譽と号す。俗姓は北条氏、本山22世の僧。本山住職の頃、この地東海和尚。開基の舊跡に就き、永禄二年、起立して陰棲のところとなす。山院寺の号も鎌倉を襲ひ、ただ新の一字を加ふるのみ。本尊阿弥陀 二菩薩
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20:38
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2012年07月13日
第二十一番 安楽寺
緑町近く住宅地の中に門柱には安楽寺とありますが、門は幼稚園みどりの愛育園とありお寺らしい雰囲気はありませんが、門を入り、お寺さんとは思えないような近代的な建物に、安楽寺と掲げられていました。お忙しいということで応対もしていただけなかったので、次回にお尋ねしたいと思います。
小田原シルバー大学ガイドブックには
荒神山 安楽寺
本尊 阿弥陀如来
当寺の起立については寺伝では文安三年(1447)讃蓮社譽宗公の起立と伝え、蓮門精舎旧詞は宝徳元年(1149)の創建として少し異があるが、いずれにしても文安宝徳の頃成立した寺院であったことは認められる。
小田原シルバー大学ガイドブックには
荒神山 安楽寺
本尊 阿弥陀如来
当寺の起立については寺伝では文安三年(1447)讃蓮社譽宗公の起立と伝え、蓮門精舎旧詞は宝徳元年(1149)の創建として少し異があるが、いずれにしても文安宝徳の頃成立した寺院であったことは認められる。
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13:31
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2012年07月12日
第二十番 善光寺
小田原シルバー大学ガイドブックより
華葉山 善光寺 本尊 阿弥陀如来 観音 朝日観音
元寺町に光譽竜雲文禄元年寂(1592)の建立した竜雲寺があったが廃寺となり、その後松陰宣竜は従来信州に生まれて善光寺如来を信仰していた関係で、善光寺からその分身を迎えて一寺を建立せんと志し、明治十六年竜雲寺跡を購入、同十八年堂宇を建立し寺名を善光寺と改めた。
開山は妙法音院演蓮社説譽上人顕阿聴全蟻閻宣竜和尚である。
華葉山 善光寺 本尊 阿弥陀如来 観音 朝日観音
元寺町に光譽竜雲文禄元年寂(1592)の建立した竜雲寺があったが廃寺となり、その後松陰宣竜は従来信州に生まれて善光寺如来を信仰していた関係で、善光寺からその分身を迎えて一寺を建立せんと志し、明治十六年竜雲寺跡を購入、同十八年堂宇を建立し寺名を善光寺と改めた。
開山は妙法音院演蓮社説譽上人顕阿聴全蟻閻宣竜和尚である。
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21:10
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2012年07月12日
第十九番 誓願寺
「新編相模国風土記稿」に記載
誓願寺 浄土宗 京都知恩院末 妙香摂取院と号す。 本尊阿弥陀 開山摂香
本尊縁起を閲するに、摂取院誓譽妙香尼および隋逐の尼妙祐と云う者諸国巡歴の折この地に寓宿す。尼兼ねて運慶作阿弥陀の御首を護持せしに、告夢あり。『明日、一僧来らん。導師として当初に一宇を建つべし。』となり。はたして翌日僧摂香くる。尼此れに於いて香に謀り、かの御首を付属せしかば、果即ち肯して萬町辺に庵を結ぶ。是れ永正三年三月十七日のことなり。その後北条氏康の臣安藤豊前守良製果に帰依する。果ある時勝地を求めて一宇を建立せん素願をのべしがば、良整氏康に言上し、今の寺地を賜ふ。永禄六年四月上旬殿堂落成す。この時氏康の局助力して阿弥陀の形體を興立せり。茲に於いて鎌倉長勒法眼宗珠形體を彫刻し、局よりりの消息を腹籠とせしと云ふ。この像はいま厨子に納め、本尊の側に安んず。
誓願寺は町名にもなる由緒あるお寺で昔の町名を表す石柱が立っています。
誓願寺を抜けて少し離れたところに観音堂があります。
そこの入口には大きな足柄観音19番札所の石柱があります。
誓願寺 浄土宗 京都知恩院末 妙香摂取院と号す。 本尊阿弥陀 開山摂香
本尊縁起を閲するに、摂取院誓譽妙香尼および隋逐の尼妙祐と云う者諸国巡歴の折この地に寓宿す。尼兼ねて運慶作阿弥陀の御首を護持せしに、告夢あり。『明日、一僧来らん。導師として当初に一宇を建つべし。』となり。はたして翌日僧摂香くる。尼此れに於いて香に謀り、かの御首を付属せしかば、果即ち肯して萬町辺に庵を結ぶ。是れ永正三年三月十七日のことなり。その後北条氏康の臣安藤豊前守良製果に帰依する。果ある時勝地を求めて一宇を建立せん素願をのべしがば、良整氏康に言上し、今の寺地を賜ふ。永禄六年四月上旬殿堂落成す。この時氏康の局助力して阿弥陀の形體を興立せり。茲に於いて鎌倉長勒法眼宗珠形體を彫刻し、局よりりの消息を腹籠とせしと云ふ。この像はいま厨子に納め、本尊の側に安んず。
誓願寺は町名にもなる由緒あるお寺で昔の町名を表す石柱が立っています。
誓願寺を抜けて少し離れたところに観音堂があります。
そこの入口には大きな足柄観音19番札所の石柱があります。
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18:52
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2012年07月12日
第十八番 道場院
「新編相模国風土記稿」に
道場院 松原山宗福寺と号す。浄土宗 江戸芝増上寺末 寛正元年、僧弘尊建。本尊 阿弥陀 観音堂。
小田原シルバー大学ガイドより
寛正元年(1460)転蓮社乗譽道場弘尊の建立と伝えられのみで、開基並びにその背景については記録を欠き詳らかでない。当所新宿町建立されたが、寛永10年(1634)新馬場に移され、正保元年(1644)更に山王原に転じた。
残念ながらお留守で本堂内を拝観できませんでした。
道場院 松原山宗福寺と号す。浄土宗 江戸芝増上寺末 寛正元年、僧弘尊建。本尊 阿弥陀 観音堂。
小田原シルバー大学ガイドより
寛正元年(1460)転蓮社乗譽道場弘尊の建立と伝えられのみで、開基並びにその背景については記録を欠き詳らかでない。当所新宿町建立されたが、寛永10年(1634)新馬場に移され、正保元年(1644)更に山王原に転じた。
残念ながらお留守で本堂内を拝観できませんでした。
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16:49
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2012年07月11日
第十七番 心光寺
大経寺からさらに東海道を西に進みます。
「新編相模国風土記稿」には
心光寺 月窓山護念院と号す。 浄土宗京都知恩院末 文安元年、僧門栄起立す。 本尊阿弥陀。
当寺元は小田原古新宿町に在り。寛文七年、回禄の後、当所に移れり。薬師堂 文化中災に罹り再建未だならず。本尊は海中出現の像なり。今本堂に安ず。
ご住職が親切にご案内いただき、本堂では地獄絵の説明をしてくれました。外にある薬師堂に案内され、この薬師は、お寺の前之浜で、漁師が海中より拾い上げ、当寺に納めたものである。この薬師は、目の悩みに霊験あらたかで、今までに重い病で悩んでいた方が、この薬師にお籠りすることで平癒した例が多々あります。目の悪い方は是非ご相談くださいとのことでした。
「新編相模国風土記稿」には
心光寺 月窓山護念院と号す。 浄土宗京都知恩院末 文安元年、僧門栄起立す。 本尊阿弥陀。
当寺元は小田原古新宿町に在り。寛文七年、回禄の後、当所に移れり。薬師堂 文化中災に罹り再建未だならず。本尊は海中出現の像なり。今本堂に安ず。
ご住職が親切にご案内いただき、本堂では地獄絵の説明をしてくれました。外にある薬師堂に案内され、この薬師は、お寺の前之浜で、漁師が海中より拾い上げ、当寺に納めたものである。この薬師は、目の悩みに霊験あらたかで、今までに重い病で悩んでいた方が、この薬師にお籠りすることで平癒した例が多々あります。目の悪い方は是非ご相談くださいとのことでした。
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19:38
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2012年07月11日
第十六番 大経寺
「新編相模国風土記稿」に
大経寺 願力山功徳院と号す。 三尊阿弥陀を置く。 開山 念譽。 地蔵堂
小田原シルバー大学ガイドより
当寺の開創については詳らかでないが、開山念譽が、天正元年(1573)に示寂している所からすれば、永禄元亀の頃起立されたものと推定される。江戸中期の規模について稟譽円翁は「本堂東向七間六間」と記している。当時には松尾芭蕉の句碑がある。
大経寺 願力山功徳院と号す。 三尊阿弥陀を置く。 開山 念譽。 地蔵堂
小田原シルバー大学ガイドより
当寺の開創については詳らかでないが、開山念譽が、天正元年(1573)に示寂している所からすれば、永禄元亀の頃起立されたものと推定される。江戸中期の規模について稟譽円翁は「本堂東向七間六間」と記している。当時には松尾芭蕉の句碑がある。
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15:01
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2012年07月10日
第十五番 大見寺
長楽寺を出て一号線沿いすぐ
「新編相模国風土記稿」より
大見寺 光明山無量院と号す。浄土宗京都知恩院末 天文三年、僧退堂小庵の古跡に就いて起立する。
本尊三尊阿弥陀 境内に小島氏の墳三あり。
「新編相模国風土記稿」より
大見寺 光明山無量院と号す。浄土宗京都知恩院末 天文三年、僧退堂小庵の古跡に就いて起立する。
本尊三尊阿弥陀 境内に小島氏の墳三あり。
Posted by 足柄山の金太郎 at
21:45
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